~オリックス、「不惑のアーチスト」門田博光逝去 の巻~
「不惑のアーチスト」
村田兆治に続き、門田博光。
古き良き、あの時代のパリーグを象徴する星がまた一つ消えました。
抗えぬ定めといえど、寂寥感が深い溜息を生みます。
「不惑のアーチスト」門田博光。
私の記憶にあるは「60」そして「78」の時代。
オリックスへ
昨季のヤクルト・村上のように、その一打が新聞の社会面をも賑わせた1988年。
当時40歳で、「中年の星」とも称された、南海ホークス・門田の豪打は止まらず、終わってみれば、本塁打44・打点125の二冠王。
その門田が単身赴任を拒み福岡移転の決まったホークスに別れを告げたのがそのオフ。
移籍先として近鉄が有力視されたなか、阪急から球団を譲り受けたばかりのオリックスに決まった際は、驚くとともに(近年のトレードでいえば糸井獲得のとき以上に)心から喜びました。
ブルーサンダー打線
その門田が加わって生まれたのが、球史に残る、ブルーサンダー打線。
一番・松永、二番・福良、三番・ブーマー、四番・門田、五番・石嶺、六番・藤井、七番・本西、八番・中嶋、九番・小川。
門田がダイエーに移籍するまでわずか2年のラインナップで、日本一にもパリーグ制覇すら成し遂げてはいませんが、破壊力そしてファンへの魅了度という点でいえば、これ以上の打線はなく。
昭和の職人
「ホームランの打ち損いがヒット」、「フェンスの向こうまでもっていくのが仕事」と豪語していた門田。
野村克也の、野村経由の王貞治の「ヒットの延長がホームラン」の忠告も言下に退けた一本気。
偏屈で堅物で一言居士ながら、結果は誰よりも残す。
その姿はまさに、昭和の職人。
そんな男を向かい入れる監督も球団もなく、引退後にコーチまたは監督としてNPBのユニフォームを着ることはなかった門田ですが、その門田が最も気にしていた選手は、オリックス・T-岡田のような気がします。
門田とT
野球小僧でWeb連載されていて、私も楽しみに読んでいた「ナニワのゴジラ奮闘記」。
その著者、谷上史郎を介し、野球小僧誌上で行われた門田とTの対談。
大ぼら吹きにも聞こえる門田の大言が穏やかなTに響いたような気はしなかったこの対談ですが、門田の大言を伝記の偉人のことばと捉えず、門田ができたのならば俺にもできると、Tが強気にとってくれればと願ったもの。
選手生命がいまより短くその上アキレス腱まで切った門田に比べ、35歳はまだまだ若い。
170の門田が羨んでいたその体躯、NPB歴代通算3位の門田が羨んでいたその長打力。
まだ老け込む年齢では決してないと、不惑の大砲は生前語っていました。
オリックス・ブレーブス 門田博光
豪のブーマー、門田に、柔の石嶺、藤井。
タイプの異なるアーチストが、色鮮やかな西宮球場と対照的な黒い夜空に数多描いた白球の軌跡。
それは、忘れることのない美しき思い出。
その中心にいたのは間違いなく、背番号「78」オリックスブレーブス・門田博光でした。
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