祈優勝! オリックスバファローズ

~オリックスバファローズを心から愛するファンの、ブログ~

イチロー

~オリックス、引退・イチローの思い出 の巻~





鈴木一朗

レジェンドがついにユニフォームを脱ぎました。

イチロー
その名には複雑な感情が絡みます。

1992年初春、スポーツ新聞の片隅に義務的に載る二軍戦のスコア詳細が、かけがえがないほどに楽しくなったのは、
ドラフト4位の高卒ルーキー・鈴木一朗が信じられないくらいのペースで毎日、ヒットを量産していたから。

いまはなき平和台球場の二軍戦に向かい、初めて生の鈴木一朗を観ました。
俊足好打。
将来オリックスの看板を担う選手になると確信しましたが、その予想のはるか上をいく活躍をみせ、私の予想は大きく違えました。




プロ初ヒット

同年7月、鈴木が一軍に昇格したとの報を聞き、平和台球場に急ぎ、鈴木を間近で観れる外野席に陣取りました。

大きなカーブが武器の木村恵二から放ったプロ初ヒット

初安打後、外野の守備に就く鈴木を一人、フェンス際で待ち構えました。
「鈴木、プロ初ヒットおめでとう」
祝福の言葉を誰よりも先に鈴木に送るために。

ガラガラの外野席、しかも敵地。
内野席に固まった10人程度の応援団を除き、これが鈴木のプロ初ヒットと知る者はいない、はずでした。




喜びと、落胆と驚きと情けなさと

若さが、人前で大声を出すことを一瞬躊躇わせたとき、突如後方から大きな声がしました。
私がかけるつもりだったことばと一語一句違わぬ見知らぬおじさんの祝辞が、私の頭上を越え鈴木に。

オリックスファンが、しかも一高卒ルーキーのプロ初安打を知るほどのコアなオリックスファンが、平和台のレフトスタンドにいたとは。

初安打を観れた喜びと、落胆と驚きと情けなさと。

私は、
日本で米国で積み重ねた4257安打の最初の一本を観た幸運者ですが、
鈴木を最初に祝える機会を失った不幸な臆病者でもあります。




鈴木一朗からイチローへ

仰木監督との邂逅が、努力と信念の結実に結びつき、時代の寵児となっていきました。

鈴木一朗からイチローへ

1995年にはパリーグ制覇、翌1996年に日本一。
あれから20有余年が経ちましたが、オリックスファンとしてこのときを越える感動は、悲しいかな、いまだなし。





オリックスのイチローから、イチローのオリックスに

個人としても国内のあらゆる記録を塗り替え、メジャーへの憧憬を隠さなくなってきたイチロー。
そんなイチローをみて、いつしか、早くオリックスから出ていってくれないかなと思うようになりました。

私が知りたいのは、
オリックスの勝ち負けであり、たとえば、牧野塁や五島裕二、杉本友ら若者の台頭であり。
しかし彼らが、チームがいくら奮闘しようと、
限られたスポーツニュースの時間で報じられるのは、イチローが何本ヒットを打ったかのみ。

オリックスのイチローから
イチローのオリックスに。

主客転倒。
後の数々の大記録をみればそれこそが正しい報道のありようなのかもしれませんが、イチローがいなくなったいまもオリックスを愛する者にとっては、それは耐えられない時間でした。




オリックスのイチロー、オリックスの鈴木一朗

MLB、シーズン最多安打、首位打者2回、500盗塁、そして3000ヒットクラブ。
マリナーズのイチロー、もしくはヤンキース・マーリンズのイチローとなっての数多の快挙。
また、
日本のイチローとして、WBC連覇に大きく貢献。

ただ、私にとってイチローは、
やはりオリックスのイチロー
そして、オリックスの鈴木一朗

あの日、
平和台のフェンス先数メートルのところにみた鈴木一朗の後ろ姿が忘れられず、
1996年、カクテル光線きらめくグリーンスタジアムで歓喜したイチローの笑顔が忘れられず。

現役生活28年、
日米通算安打4257安打、
さらにはWBCでの24安打。

神戸、シアトル、ニューヨーク、マイアミ。

野球ファン一人一人の心に、イチローの思い出が刻まれています。




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