祈優勝! オリックスバファローズ

~オリックスバファローズを心から愛するファンの、ブログ~

中嶋聡

~パリーグ優勝のオリックス、中嶋聡という男① の巻~




オリックス監督、中嶋聡

監督就任わずか1年(+代理監督半年)で弱小オリックスをリーグ制覇にまで導いた、オリックス監督・中嶋聡
来季契約締結ということですが、これだけの指揮官を手放すはずもなく(中嶋の心情はともかく)これは必然の流れ。

来季もチームを率いる中嶋がオリックス優勝の立役者であることは間違いないものの、中嶋を阪急時代から知る者にとっては喜びの次に驚きが来るのが本音。

あの中嶋が、と。



山田の引退試合

秋田・鷹巣農林高からドラフト3位で阪急入団。
高卒1年目に一軍出場、2年目には77試合に出場し阪急最後の試合で同郷・山田久志の引退試合のマスクをかぶる。
西宮でのそのラストゲームで阪急最後の本塁打を放ち、阪急最後の白星、山田の284勝目に寄与。

1984年に新人王に輝き、これで阪急の捕手は10年安泰といわれた藤田浩雅の不調もあり、オリックス初年度、高卒3年目にゴールデングラブ賞を受賞した中嶋。
その強肩は日本一とも称され、藤田と比べてすらりとした体型で俊足、打も(1990~91年に二桁本塁打と)弱くない。
この時点で藤田に代わり、オリックスの捕手は10年安泰といわれることとなります。



伸びきれず

1990年のオリックスブレーブスイヤーブックでは、小川博文とデート企画に登場するなど、チームの若きスターとなった中嶋。
しかし、そこから伸びきれず、というのが中嶋に対する印象。
ロッテ・ホールに体当たりを浴び骨折するなどの怪我もあり出場試合は漸減。

仰木監督就任後はデータ重視の日替わり打線の影響もあり、藤田とのトレードで加入した高田誠、新人の三輪隆との併用に。

1994年からオリックス最終年となった1997年までの中嶋の出場試合数は37→101→98→73。
藤田とのトレードでオリックスに加入した高田誠が104→49→72→42、新人の三輪隆が1→49→29→86。

オリックスがパリーグを制した1995~96年に最も多くマスクを被っており(1995年にはベストナインも受賞)、正捕手は中嶋と個人的には思っていましたが、阪急~オリックス初期に中嶋に抱いた圧倒的な存在感を得るまでには至らず、彗星の如く現れたイチローのきらびやかさもあり、中嶋の影は徐々に薄くなっていきます。



いまいち

その頃、1997年に10年選手となった中嶋の評は、リードがいまいち、捕ってからの早さ・スローイングの正確さに成長が窺えず。
いわゆる捕手としてのインサイドワークがもう一つで、1995年の日本シリーズでは相手の古田と比べられ敗因の一つに挙げられたほど。

さらに仰木監督との相性もいいとは思えず
中嶋自体口数が多い方ではなく、自分を曲げて媚びいるような人間でもなく、投手起用法で仰木と対立し日本一を置き土産に山田久志が去って以降、仰木に対してより意固地となっていった印象。

ゆえに、1997年シーズンオフのFA宣言も、ファンとしては一縷の寂しさあれど、さもありなんと捉えていました。



?マーク

宣言自体はさもありなんも、デビューから10年経ち、捕手としての成績に能力も低下気味の現状。
他球団で通用するのかなと思ったのが本音。

しかもそこでメジャー挑戦を表明。
自身の能力の把握ができておらず、メジャー挑戦がご破算になったとき、パリーグナンバーワン捕手の伊東のいる西武を選択。

出場機会を求めてのFAで、西武入り
中嶋に対して頭の中でいろいろと?マークが浮かんだこの頃。
自己評価の高さと判断の甘さ、緩さ、こういうところが中嶋が伸びなかった原因かと結論付け、オリックスの未来を担うと期待した中嶋への関心はここで途切れました。

まさか、中嶋が阪急最後の選手となるなど、そして24年後オリックスを仰木以来のリーグ制覇に導くなど、露とも思わず。

中嶋との再会は、2019年。
FAでの離別から22年の月日が経っていました。

次回、~パリーグ優勝のオリックス、中嶋聡という男② の巻~に続く。




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