祈優勝! オリックスバファローズ

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高橋智

~オリックス・高橋智、「左から石嶺(和彦)、俺、門田(博光)」(笑) の巻~




高橋智

~オリックス・杉本裕太郎の変身 の巻~~オリックス、杉本裕太郎と高橋智 の巻~と杉本について書きましたが、書くにつれ思いが増すのが高橋智のこと(そういえば高橋も、ヤクルト時代「99」番を背負っていました)。

スポーツナビの連載(連載:プロ野球 あの人はいま「高橋智「”代打・投手”なのに特大ホームラン!?」」/著者:前田恵)が興味深かったので引用させていただきます。

 あのころ、日本人選手で身長194センチといえば、一人飛び抜けてデカかった。そこで、まず高橋智に付いたニックネームは「デカ」。ブーマー・ウェルズ(阪急)、ラルフ・ブライアント(近鉄)、オレステス・デストラーデ(西武)らに見劣りしない体格で、彼らのパワーにも負けない打球を放ったことから、「和製外国人選手」と呼ばれることもあった。人気ラッパーMCハマーに似たヘアスタイルにピアスを付けた、ちょっぴりヤンチャな雰囲気も相まってファンに愛された、記憶に残る選手である。

圧倒的な体躯に、日本人離れしたパワー。
さらにピアスなどの個性的なスタイル。
漫画家・水島新司もその豪快さを愛していたようで、ピアス姿の高橋はドカベン・プロ野球編でも多く描かれています。



そのまま代打に行って、西宮球場の中段へホームランを打っちゃった」

神奈川・向上高からピッチャーとして1984年、阪急に入団。高卒ルーキーは二軍の試合になると、バックネット裏に座ってスコアを付けていた。イニングの合間にはそのデータを持って、ベンチに走る。ところがある日の試合で、代打が誰もいなくなった。見ると、ベンチから中田(昌宏)二軍監督が手招きしている。

そのまま代打に行って、西宮球場の中段へホームランを打っちゃった。バッティングなんか、お遊びでしかやっていなかったのにね。中日戦で、確か相手は斉藤学(現・福岡ソフトバンクコーチ)さんだったと思います」

二刀流と言えば二刀流も、投手に必要な繊細さを持ち合わせておらず、投手としては大成できずに当然のように打者転向。




松永のアドバイス

大きな転機は1991年。新任の土井正三監督が、高橋を辛抱強くスタメンで使ってくれたのだ。この年、高橋は1軍に定着すると、123試合出場で23本塁打を放ち、大ブレークを果たす。

「あるとき練習で、僕が松永(浩美)さんに『なんかダメなんですよね』みたいなことを軽く言ったんです。そうしたら『何も考えず、黙ってセンター返しをしておけ』と言われました。俺が見本見せたるから、と」

松永はバッティングマシンのほぼ正面に立ち、胸元に向かってくる球をカーンと綺麗にさばいて見せた。ステップしたとき(右バッターの)右肩が開かずに残り、球をギリギリまで引き付けて打つ。そのときバットの先端は、内側から実にスムーズな軌道で出ていった。

「ちょうど落合(博満=当時中日)さんがベースの上に立って、体の正面に向かって来る球を打ち返す練習をしていたのも見ていたんです。落合さんと松永さんの練習を参考に、自分なりに練習方法を考えました。思えば水谷さんに教わっていたときも、楽しかったんですね。水谷さんがいなくなって、成績も停滞し途方に暮れていたとき、松永さんにアドバイスをいただいた。また野球が楽しくなりました」

先輩が悩む後輩を指導・助言する。

福良がSportivaのインタビューにてチームの伝統について語っていたことばを思い出します。



「あのプレーはアカン」

選手って、首脳陣にああだこうだ言われるよりも、選手同士で話をしたほうが響くところがあるんです。年上の選手が年下の選手にこういう野球が大切だとか、こういうことを考えて野球をするんだということを教育されて成長していく……それがチームの伝統やと思います。コーチが言うのと選手が言うのとでは、まったく効果が違うんです。ロッカーで『あのプレーはアカン』と先輩がちゃんと指摘して教育していかないと、チームの色や伝統を受け継ぐことはできません」(Sportiva)

いまの時代、アドバイスは送っても『あのプレーはアカン』と指摘できる先輩が何人いるか。

高橋の記事で名の挙がった松永浩美はそれができた選手で、若い頃の田口も松永にしごかれながら野球を学んだ選手。



阪急プロスペクト

松永の助言もあり、その後オールスター2度出場にベストナイン選出とその才能が開花した高橋ですが、いろいろありヤクルトに移籍(ここについてはまた別の日に)。

高木晃次に高橋智。
阪急プロスペクトのトレードには寂寥感しかなく、阪急ブレーブスが遠くに消えていくことを実感。
そしてその思いは藤井康雄に託されることに。



「あの時代にもう、俺が合っていなかった」

「パ・リーグからセ・リーグに行って感じたのは、阪神・野村(克也)監督の野球に代表されるように、駆け引きが長いこと。僕の神経じゃあ、ハナから無理だった(笑)。それはともかく、3年目に干された。自分ではまだまだという気持ちはあったけれども、(34歳の)年齢で判断されたところは大いにあったと思う。でも今考えてみれば、あの時代にもう、俺が合っていなかったんでしょうね。野球自体が、変わってきていた。今、左から石嶺(和彦)、俺、門田(博光)なんていい加減な外野、見ないでしょう(笑)

「3年目に干された」と語る高橋。
ヤクルトへのトレードも仰木彬ら当時の首脳陣との確執・野球観の違いが原因。

所属した2球団でともに揉めたところをみると、高橋自身にも問題はあったのでしょう。

ただ、「あの時代にもう、俺が合っていなかったんでしょうね」と自嘲する高橋の姿をみれば、高橋自身にもその自覚はあり。
そこで自らを曲げるか貫くかは個人の生き方の問題であり、外野がどうこう言うことではなし(ただ、その外野からみればもったいない気はします)。



「左から石嶺(和彦)、俺、門田(博光)」

最後の一文。

今、左から石嶺(和彦)、俺、門田(博光)なんていい加減な外野、見ないでしょう(笑)

高橋の(笑)はたぶん哄笑。

小学生が初期ファミスタで並べたような、高橋曰く「いい加減な外野」陣。
ただその「いい加減な外野」は、豪快で、楽しく、懐かしくて、いまもなお魅力的に感じます。

私も、「左から石嶺(和彦)、俺、門田(博光)」の外野陣を思い浮かべて哄笑します。





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