~阪急最後の将、上田利治 の巻~
15年
当時の四コマ漫画。
どこそこのチームの監督が交代する。
どこそこのチームの監督も交代する。
阪急は…、
21世紀も上田監督のまま。
1974年、名将・西本幸雄の後を継いで阪急ブレーブスの監督に就任。
1975~77年、日本シリーズ3連覇。
西本が常勝ブレーブスの種を蒔き、
上田が水をやり大輪の花を咲かせました。
阪急での監督歴は2年のブランクを挟み、計15年。
監督をころころ変えるいまのオリックスからは考えられないほどの長期政権。
それだけ上田が信頼されていた証でしょう。
それは漫画で揶揄されるほどに強固なものでした。
覚悟
2年のブランクは、4年連続日本一がかかった日本シリーズ第7戦での抗議のため。
1時間19分にもわたったその猛抗議は批判も浴びましたが、
上田が、それだけ勝利というものに強いこだわりをもっていたことの証左でしょう。
その後、試合遅延の責任をとり、監督辞任。
それだけの覚悟をもっての抗議でした。
一つの勝利のため、
一つの勝利を得るために一生懸命やっている選手を守るため、
納得できない判定にはすべてを捨ててでも抗議するその信念と覚悟。
監督の鑑といっても言い過ぎではないでしょう。
どこぞの監督にもすこしは見習っていただきたい。
阪急最後の将
阪急を初の日本一に導いた監督であり、
阪急の最期を看取った監督でもありました。
上田監督が亡くなる前、たまたま、あの10月23日の貴重な映像をみていたのですが、
試合が終わりファンに惜別の挨拶をする上田のことばに、
自然と涙が溢れてしまいました。
「最悪の成績」となった(それでも4位です)と、阪急最後のシーズンの不振を詫び、
それが球団譲渡につながったと自らを責め、
「すみませんでした」と頭を下げる。
オリックスへの身売りに関して、
「球団譲渡のお話を伺ったとき、夢であれ嘘であれと思い続けてきましたが、とうとう実現してしまいました」。
阪急ファンがそのとき思ったのと同じ感情を、
上田も思ってくれていました。
そして、
新生オリックスブレーブスへの期待を述べたあと、
上田は叫びます。
「しかしながら、ほんとうにさみしいです。虚しいです。悔しいです」。
ファンと同じだけ、いやそれ以上とも思えるくらい、
上田は阪急ブレーブスを愛してくれた人でした。
ブレーブスは永遠に
阪急ブレーブスが消えゆく最後の最後に、
上田はファンに、ブレーブスへの思いを語りました。
「阪急ブレーブスはオリックスブレーブスに譲渡されました。
しかし、ブレーブスは阪急のものではありません。
また、オリックスのものでもないと思っています。
ここにおられるファンの皆様方、一人一人のブレーブスだと思います。
皆様方がいる限り、ブレーブスは永遠に生き続けます」。
阪急も、
ブレーブスも、この世から消えてしまいましたが、
いまもなお私たちの胸の中には、あの日の勇者たちが生きています。
山田、福本、加藤。
足立、長池、大熊。
佐藤、今井、山口高志。
簑田、中沢、高井。
山沖、星野、松永、福良、ブーマー、石嶺、藤井…。
他、多くの勇者たちが、西宮球場で駆け回っています。
彼らを「ええでええで」とベンチ中央に腰かけ微笑むのは、監督・上田利治。
ブレーブスはいまもなお、生き続けています。
上田監督が言ったように、
それはきっと、永遠に。
上田さん、
あなたが阪急ブレーブスの監督で、ほんとうによかった。
上田監督のご冥福を、心よりお祈りいたします。